
いまは、あの工場にいません。
自分の事務所の窓から、高岡の低い空を眺めながら、これを書いています。冬の入り口の、鉛色の雲。あの頃と同じ空です。あの頃の私と、いまの私のあいだには、独立という一本の線が引かれました。線の向こう側を、少し離れたところから振り返ってみたい。そう思って、この話を書きはじめます。
先に、ひとつだけ白状しておきます。
これは、うまくやった男の手柄話ではありません。むしろ逆です。当時の私が、いかに何も分かっていなかったか。どれだけ的外れなことを考え、人を見くびり、そして何度も足をすくわれたか。その記録です。だから、少し情けない話も出てきます。それでも書くのは、あの情けなさの中にこそ、いま私が伝えたいことが埋まっているからです。
── 初出勤の朝 ──
初出勤の朝。工場の通用門をくぐると、油の匂いが鼻を突いた。
切削油と、機械油と、金属を削ったあとの、あの熱を持った鉄の匂い。混じり合って、建屋全体に染みついている。前の会社でも、毎日嗅いでいた匂いだ。同じはずだった。なのに、まるで違うものに感じた。
前の会社では、この匂いの中に、自分の居場所があった。ここには、まだ、何ひとつない。
奥で、旋盤が甲高く回っている。誰かがフォークリフトのクラクションを短く鳴らし、パレットを積んだ台車が、コンクリートの床を軋ませて通り過ぎていく。その騒がしさの真ん中で、私は一人、場違いに立っていた。
四十代での、転職だった。
── 現場の長、仲田さん ──
朝礼で、紹介を受けた。生産管理を担当します、と、それだけ言った。
拍手は、まばら。作業着姿の男たちが十数人、ぐるりと私を囲んでいる。その視線が、私の顔ではなく、少し下——首から胸のあたりを、すっと通り過ぎていくのが分かった。値踏み。そういう目だ。何ができる男なのか、値札を確かめられている。感じただけで、当時はまだ、その値踏みの中身までは分かっていなかった。
朝礼が終わると、一人の男が、まっすぐ近づいてきた。
仲田さん。現場の長だ。五十代の後半だろうか。まくり上げた袖から出た前腕に、太い血管と、消えない油染みが浮いている。長年、機械と鉄を相手にしてきた腕だった。握手はない。ただ、私の真正面に立って、少し顎を引き、私を見下ろすようにした。
「生産管理っちゅうのはね」
そこで、一度、言葉を切る。舌打ちの手前のような、短い間だった。
「工場の連中が、スムーズに仕事できるようにするのが役割なんだぞ」
はい、と私は答えた。それしか言えなかった。
「分かっとるならいいんだ」
仲田さんは、そう言って、背中を向けた。油に汚れた作業着の背中が、旋盤の並ぶ現場へ消えていく。その背中を見送りながら、当時の私の腹の底は、じりじりと焼けていた。
(——お手並み拝見、ってところか)
冗談じゃない、と思いました。俺は、小間使いになりに来たんじゃない。前の会社では、俺が仕組みを作る側だった。それなりのものを、この手で組み上げてきた。それを、顔を合わせて三十秒の男に、椅子の座り方まで指図されている。
いまなら分かります。あのとき腹を立てた私こそ、いちばん何も見えていませんでした。けれど、当時の私は、まだそれを知りませんでした。
仲田さんの言葉じたいは、間違っていませんでした。
生産管理は、現場が滞りなく動くように、材料と人と設備と時間を合わせていく仕事です。現場に奉仕する面は、確かにあります。字面を取れば、仲田さんは正論を言っていました。
ただ、あの言い方には、別の意味が乗っていました。
——お前も、これまでの連中と同じように、俺たちの言うことを聞け。
そう聞こえました。聞き間違い? いいえ。その後の数週間で、聞き間違いではなかったと知ることになります。
最初の一週間で、分かったことがあります。
この会社では、面倒な仕事が、静かに私のところへ流れてくる。
朝、机に着くと、見覚えのない書類が積まれている。誰かが「これ、生産管理の仕事だよね」と言う。すると、それまで誰がやっていたのか分からない作業が、私の机に移ってくる。悪意は、ありません。少なくとも、表向きは。ただ、その場の全員が、なんとなく、そう立ち回る。
水は、低いところへ流れます。新参者は、いちばん低い。それだけのことでした。
やがて、もっと根の深いことに気づきます。
歴代の生産管理担当が、仲田さんの——現場の長の、小間使いのような役回りに収まっていたのです。現場が「明日までに揃えろ」と言えば揃える。「この書類は要らん」と言えば捨てる。判断は現場、手を動かすのが生産管理。その関係が、たぶん何代も前から続いていました。
だから仲田さんは、初日に釘を刺したのです。この椅子には、こう座るものだ、と。
いまになって思えば、仲田さんは私を虐げたかったわけではありません。彼は、自分が長年かけて守ってきた現場の秩序を、また一人やってきた新参者から守ろうとしただけです。彼の中では、それが正しさでした。そして彼は、その正しさに、誰よりも忠実だった。
当時の私には、そこまで見えていませんでした。ただ、腹が立っていました。
ここで少し、昔の話をさせてください。
二十代の頃、私は別の会社で、海外から商品を調達する仕事に携わっていました。船で何週間もかけて届く荷物と、その一つひとつに付いてくる書類。それを捌くのが仕事でした。
あの頃の私は、指示する側でした。
新しいやり方を思いつけば、同僚に「こうしよう」と言えた。同僚も同じ二十代でしたから、面白がって乗ってくれた。抵抗らしい抵抗を受けた記憶が、ほとんどありません。
若かったから、それが当たり前だと思っていました。同じやり方が、どこでも通じると。
二十年経って、私はそれが、とんでもない思い上がりだったと思い知ります。ただ、初出勤のあの朝には、まだ知る由もありません。
さて、仕事です。
新参者ですから、まず現状を知らなければなりません。私は、あちこちで話を聞いて回りました。
現場の作業者。班長。資材の担当。経理。営業。
「いま、いちばん困っていることは何ですか」
そう尋ねると、みなさん、それなりに答えてくれます。材料が来ない。急な計画変更が多い。書類が多くて大変だ。人が足りない。
聞いているうちに、妙な感覚に襲われました。
同じことを尋ねているのに、答えが噛み合わない。
ある人は「材料はいつも余っている」と言い、別の人は「いつも足りない」と言う。ある人は「あの品番は月に三回発注している」と言い、別の人は「あれは年に二回だ」と言う。
どちらかが嘘をついている。最初は、そう思いました。あるいは、いい加減な連中なのだ、と。
いまこれを書きながら、顔が熱くなります。誰を笑えたでしょう。
彼らは、嘘をついていませんでした。いい加減でもなかった。
全員が、自分の見ている範囲の中では、正確なことを言っていたのです。
余っていると言った人は、自分の工程の脇に積まれた材料を見ていた。足りないと言った人は、別の工程で実際に手が止まった朝を思い出していた。月三回と言った人は繁忙期の記憶で話し、年二回と言った人は自分が発注書を書いた回数を数えていた。
人の脳には、自分にとって都合のよい情報だけを拾い上げる、フィルターのような働きがあります。「在庫は足りている」と信じている人は、足りている棚だけを目に止める。「うちはちゃんと発注している」と思っている人は、自分が書いた発注書の枚数だけを数える。見たいものを見て、見たくないものは意識の外に流れていく。
それは、怠慢でも嘘でもありません。人間という生き物の、設計そのものです。脳は、あふれる情報のすべてを処理しきれない。だから、自分の信念や経験に照らして「関係ある」と判断した情報だけを通過させ、それ以外を自動的に省いている。日々の業務を生き延びるための、合理的な仕組みでもあります。
ただ、その仕組みは、組織の中では厄介なことを起こします。各人のフィルターを通った「正しい情報」が、集まると噛み合わなくなる。
みんな、正しい。それなのに、合わない。
(……誰も、嘘なんかついていない。それなのに、合わないんだ)
そう気づいたとき、背筋が、すっと冷えました。
これは、厄介だ、と。人が嘘をついているなら、まだ話は早い。正した人を、信じればいい。けれど、全員が正直で、全員が正しくて、それでも噛み合わないなら——直すべきは、人ではない。
会社には、業務システムがありました。数字も入っていた。書類もあった。棚卸しの表もあった。
けれど、それらは、互いに突き合わされていませんでした。
システムの数字が正しいのか、棚の中身が正しいのか、誰も確かめていない。確かめる手順が、決まっていない。決まっていないから、それぞれが、自分の見えている範囲を「事実」として持ち歩く。持ち歩いたものを、それぞれの持ち場で使う。
だから、聞く相手によって、答えが変わったのです。
一人ひとりは、自分の持ち場を、ちゃんと最適にしていました。班長は班長の、資材は資材の、それぞれの都合の中で、いちばん良いやり方を選んでいた。その部分の正しさが、寄せ集まったとき、全体の狂いになる。
悪いのは、人ではなかった。基準の不在だった。
犯人を捜しても、犯人は出てきません。全員が正しくて、全体が壊れているのですから。
そう腑に落ちたとき、私は、少しだけ楽になりました。
もし「あの人がだらしないから数字が合わない」のなら、打つ手は「あの人を変える」ことになります。人は、そう簡単に変わりません。まして新参者の言うことなど、誰も聞かない。
けれど「基準がないから合わない」のなら。
基準は、作れる。
人を変えなくても、基準を置くことはできる。
(……基準なら、作れる)
もっとも、そう考えたところで、目の前は何も変わっていません。
朝礼で、私の紹介はもうされない。仲田さんは廊下ですれ違うと、軽く顎を引くだけ。事務所の人たちは、私が現場に出入りするのを、遠くから眺めている。面倒な仕事は、今日も、机の上。
そして私は、この会社に、直すべき場所が数え切れないほどあることを知っていました。在庫も、発注も、書類も、単価も、納期も——どれも、まともに突き合わされていない。
全部を一度に変えることは、できません。
いまなら、はっきり言えます。全体を一度に正そうとする者は、必ず潰される。権限も信用もない新参者なら、なおさらです。号令ひとつで人が動くなら苦労はしない。動かないからこそ、賛同者を、一人ずつ増やしていくしかない。
けれど、当時の私が持っていたのは、二十代の頃に一度だけ似たようなものを組み立てた、その記憶だけでした。
だとしたら。
どこか一点に、絞るしかない。
── その夜、駐車場で ──
その夜、私は工場の駐車場で、しばらく車に乗らずに立っていた。
建屋の窓は、もう暗い。昼間あれほど回っていた機械の音も、すっかり止んでいる。人の気配の消えた工場は、ただの巨大な鉄の箱だった。外灯の白い光の中を、粉雪が一つ、二つ、斜めに横切っていく。
明日から、どこを見に行こうか。
そう考えながら、私はまだ、知らなかった。この先の半年間、この暗い建物の中で、毎晩ひとり、何かを数え続けることになるとは。
そして、その暗がりに、ある人が黙って現れることになるとは。
(第2話へつづく)
この物語は、実話をもとにしたフィクションです。