数字が合わない工場(第3話)夜の同行者

前の話の終わりで、夜の倉庫に、思いがけない人物が現れたところまで書きました。その人のことを、話しておかねばなりません。のちに私の歩みを、大きく左右することになる人です。

あの夜のことを、順に書いていきます。

── 夜間の資材倉庫にて ──

夜、八時を回っていた。

倉庫の水銀灯は、半分だけ落としてある。天井の高いこの建屋で全灯をつけると、光が広い床に吸われて、かえって目が疲れる。だから手元だけでいい。クリップボードの白い紙と、いま数えている一列の鋼材。そこにだけ、青白い光が落ちていた。

三月の夜は、まだ冬の名残りを引きずっている。昼間は機械の熱と人いきれでこもっていた空気が、無人になった途端、コンクリートの床から冷えを吐き出すはじめる。足の裏から、膝、腰へと、冷たさがゆっくり登ってくる。私は鋼材のラックの前にしゃがみ、刻印された番号を指でなぞり、本数を数え、また紙に書きつけた。鉄と、油と、うっすらとした銖の匂いが、鼻の奥に張りついている。

——カチャン。

背後で、通用口の鉄扉が鳴った。

手が、止まった。

こんな時間に、人は来ない。守衛の見回りにしては、足音が違う。私は振り返った。半分闇に沈んだ通路の先、扉の四角い枠の中に、人影が立っている。

ラックの隙間を縫って届く、わずかな光。その光が、影の輪郭を撫でたとき、私は息を呑んだ。

柴田常務だった。

(……なぜ、この人が)

まずい、と全身が縮んだ。二代目。当時はまだ常務で、最終決定権は先代にあった。それでも、雲の上の人だ。その人が、夜の倉庫で、油と埃にまみれてしゃがみ込む中途の新入りを、まっすぐ見ている。

「——何してるの、こんな時間に」

声が、がらんとした倉庫に響いて、天井のどこかへ消えていった。逆光で、表情はうまく読めない。哪めているのか、ただ訫しんでいるのか。

私は、ゆっくりと立ち上がった。しびれかけた膝が、小さく鳴った。


正直に答えた。棚卸しの数字が、システムと合わない。合わない理由を確かめたいが、昼間は人が動いていて数えられない。だから、夜に一人で数えている、と。

柴田常務は、しばらく黙って私を見ていた。そして、こう言った。

「それ、現場にやらせればいいんじゃないの」

もっともな言葉でした。

数えるのが仕事なら、現場の担当者にやらせればいい。社員が一人、夜な夜な残って倉庫にこもるなど、どう考えても効率が悪い。人件費の無駄でもある。経営を頸かる側から見れば、当然の指摘です。

いまなら、その視点の正しさが、痛いほど分かります。会社の資源には限りがある。一人の人間が使える時間にも、限りがある。その貴重な時間を、たった一人の棚卸しに、半年も注ぎ込む。経営者が「待った」をかけるのは、正しい。

けれど、あのときの私は、引かなかった。

「現場にやらせても、たぶん、同じ数字が出てきます」

そう答えた。

(……ここで引いたら、全部が振り出しに戻る)

今の現場に「数えてくれ」と頃めば、これまで通りの数え方で、これまで通りの表が出てくる。その表が、なぜシステムと合わないのか。それを突き止めないまま人に振っても、また同じ、意味の抜けた作業が一つ増えるだけだ——私は、そう続けた。

まず、自分で数える。なぜ合わないのか、その理由を、この手で掴む。仕組みを作り直すのは、それからだ、と。


議論は、平行線でした。

柴田常務は「時間がかかりすぎる」と言い、私は「急いで振っても直らない」と言う。どちらも、会社を良くしたいと思っている。それは間違いない。ただ、見ている時間の長さが、違っていました。

常務は、今期の、来月の、目の前の効率を見ている。私は、この先何年も腕らない仕組みの土台を見ている。どちらが正しい、という話ではありません。両方とも、正しいのです。両方とも正しいからこそ、噫み合わない。

いまでこそ、私はこう考えます。経営者と現場の担当が食い違うとき、その多くは、どちらかが間違っているのではない。見ている時間の射程が、違うだけなのだ、と。

けれど、当時の私に、そこまでの余裕はありませんでした。ただ、引けなかった。引いたら終わりだと思っていました。

沈黙が、少し続きました。倉庫の隣で、螢光灯がひとつ、ジ、と小さく鳴っています。


── そして、二人で数えはじめた ──

やがて柴田常務は、小さく息をついた。そして、スーツの上着を脱いだ。近くのラックの端に、それを無造作に掛けた。

「……分かった。どこから数えればいい」

私は、耳を疑った。

説得できた、とは思っていません。たぶん、あの人は納得したわけではなかった。ただ、こう考えたのだと思います。この新入りが、口先だけなのか、それとも本当に何かを掴もうとしているのか。それを、自分の目で確かめよう、と。

その夜、私たちは二人で数えました。

会話は、ほとんどありませんでした。私が品番を読み上げ、常務が本数を数え、私が書きつける。ワイシャツの袖をまくった常務の腕は、現場の男たちのそれより、ずっと細い。けれど、その手つきに、面倒がる様子はありませんでした。品物を一つずつ手に取り、確かめ、また戻す。その沈黙は、気まずいものではありませんでした。同じ作業を、同じ手で分け合う。そこには、言葉のいらない種類の、確かめ合いがありました。

これが、半年に及ぶ夜の始まりでした。


数えるほどに、いろいろなことが見えてきました。

そして、そのどれもが、私を打ちのめしました。

同じ品物が、離れた場所に分散している。どこを「正」とするか、決まっていない。棚のラベルは薄れ、あるいは実物と食い違っている。「だいたいこのへん」という感覚で、物が置かれている。数える人によって、答えが変わる。当たり前でした。数える対象そのものが、揺れているのですから。

在庫の数字が合わないのは、数える人が不注意だからではありませんでした。

数える前の、置き方の段階で、すでに崩れていたのです。

だから私は、数えることと並行して、置き方そのものを整えていきました。同じ品物は一箇所に集める。置き場を決める。ラベルを直す。「この品番は、ここにしかない」と言い切れる状態を、一つずつ作っていく。

派手さの、かけらもない作業です。八倉巻さんにも手伝ってもらいました。長年この倉庫を頸かってきた人です。どこに何があるか、彼の頭の中には、彼なりの地図がある。その地図を、私が紙とラベルに書き出していく。「置けるとこに置く」しかなかった倉庫が、少しずつ、「決めた場所に置く」倉庫に変わっていきました。

この地味な作業こそが、後になって効いてきます。置き場が定まって初めて、「数える」という行為が、意味を持ちはじめるのですから。


半年のあいだ、柴田常務は、たびたび夜に現れました。

毎晚ではありません。来られる日に、ふらりと来る。そして、黙って数える。数えながら、ぽつぽつと、会社の話をするようになりました。先代のこと。この工場の来し方。自分が、これからこの会社をどうしたいか。

昼間の、常務と新入り、という関係では、決して交わされなかった話です。

夜の倉庫という場所が、二人のあいだの、余計な肩書きを溢かしていました。私たちは、いつしか、一つの問題を一緒に解こうとする、ただの二人になっていました。

あのころは、気づいていませんでした。この夜の時間が、後にどれほど大きな意味を持つことになるか。

いま、独立して自分の看板を掛げ、その会社と顧問契約を結んでいます。すべての始まりが、あの薄暗い倉庫の、言葉少なな夜にあったのだと、今ならはっきり分かります。


さて。置き方が整い、数える対象が定まってくると。

ようやく、次の段階が見えてきました。

数える対象は、決まった。数え方も、私自身の手で、固まってきた。だとすれば、次にすべきことは一つ。この数え方を、現場の日常の中に、どう根づかせるか。

一人で数え続けるわけには、いきません。いつかは、現場に返さなければならない。けれど、ただ「やってくれ」と頃めば、また元の木阿弥です。

どうすれば、現場が、自分たちの仕事として、正しく数えてくれるようになるのか。

その鍵は、たった一つの、拍子抜けするほど単純なルールにありました。


(第4話へつづく)


この物語は、実話をもとにしたフィクションです。

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