「自分の仕事、マニュアルにまとめておいて」と言われて、机に向かった。手順は頭に全部入っている。書けるはずだ。
……なのに、いざ書き出すと手が止まる。「材料を適量入れる」「様子を見て調整する」。書いた瞬間、これでは何も伝わらないと分かる。
でも「適量」を数字にしようとすると、自分が普段どうやって決めているのか、自分でも説明できないのだ。
連載の第2回です。
前回は「そもそも業務マニュアルとは何か」を確認しました。
普通の取扱説明書と違って、業務マニュアルは「誰がやっても同じ結果」を目指し、しかも書き手が自分のやり方を自分の内側から言葉にしなければならない。だから特別に難しい、という話でした(第1回はこちら)。
今回は、その難しさを「書く本人」の視点から掘り下げます。
なぜ、頭に入っているはずの仕事が、いざ書こうとすると書けないのか。冒頭の場面に、心当たりのある方は少なくないはずです。
そもそも「手順」と「アルゴリズム」は違う
少し遠回りに見えますが、「アルゴリズム」という言葉から始めさせてください。
難しそうな響きですが、中身は「目的を達成するための手順」のことです。
レシピも、道順も、トランプを数字順に並べる方法も、立派なアルゴリズムの仲間です。
ただし、ふつうの手順と「きちんとしたアルゴリズム」の間には、はっきりした違いがあります。
次の三つの条件です。
- 曖昧さがない:誰がやっても同じ結果になる。「適量」のような解釈の余地がない。
- 必ず終わる:有限の手数で、ちゃんとゴールにたどり着く。
- 一般的に使える:同じ種類の問題すべてに通用する。一回限りの特例ではない。
たとえば「今日、家から駅までこう歩いた」という一回限りの道順は、厳密にはアルゴリズムではありません。これは「手続き」と呼ばれます。
標準化とは、現場の場当たり的な手続きを、この三条件を満たすアルゴリズムに近づけていく営みだと言えます。
そして冒頭の「適量」「様子を見て」は、まさに一つ目の条件「曖昧さがない」に引っかかっています。
書いた本人が「これでは伝わらない」と直感したのは、正しい。曖昧さが残ったままだからです。
業務マニュアルは、アルゴリズムそのものにはなれない
では、業務マニュアルを徹底的に厳密化して、すべてをアルゴリズムにすればいいのでしょうか。
実は、そう単純でもありません。
マニュアルを読むのは、コンピュータではなく人間です。
人間が読む以上、「なぜそうするのか(Why)」の理解や、その場での判断の余地が要ります。
すべてを機械のように厳密に書き切ると、膨大で、読む気の失せる文書になり、結局は使われません。
前回触れた「棚に眠る分厚いマニュアル」は、この失敗の典型です。
つまり業務マニュアルは、二つの層でできています。
誰がやっても同じになるよう厳密に締めるべき「骨格」と、人間の理解や判断にゆだねて余地を残す「肉付け」。
この二層構造を意識せずに書くと、必ずどこかで無理が出ます。
標準化が難しい正体 ― 二つの壁
この二層構造を踏まえると、マニュアルづくりでつまずく原因が、二つの壁として整理できます。
壁1:締めるべき部分を、書き漏らす
これが最も厄介な壁です。
人は仕事に熟練するほど、判断が無意識になっていきます。
最初は「温度が上がってきたら火を弱める」と意識していたのに、何千回も繰り返すうちに、考えなくても手が動くようになる。
その結果、本人の中では「適量」「様子を見て」で完結してしまい、そこに精密な判断が隠れていることに、本人が気づけなくなる。
つまり、マニュアルで最も書くべき大事な判断ほど、書き手自身に見えていない。
だから書き漏れる。これは「うっかり」ではなく、熟練の構造そのものから来る、避けがたい現象です。
壁2:緩めるべき部分まで、締めてしまう
逆方向の失敗もあります。
真面目な人ほど「全部きちんと書かなければ」と考え、人間の判断にゆだねていい部分まで事細かに書き込んでしまう。
結果は、誰も読まない膨大なマニュアルです。
二つの壁を合わせると、標準化の本質が見えてきます。
それは「どこを締め、どこを緩めるか」の見極めの問題なのです。
締めるべきを書き漏らし、緩めるべきを締めすぎる。この二重のズレが、使えないマニュアルを生みます。
最も書くべき判断ほど、熟練によって無意識に沈み、本人の目に映らなくなる。書き漏れは、技量の低さではなく、熟練の証なのだ。
哲学は、この問題をとっくに言い当てていた
「知っているのに言葉にできない」という現象は、実は半世紀以上前から哲学が深く考えてきたテーマです。
ここで、二人の思想家を紹介させてください。難しい話ではありません。
一人目は、マイケル・ポランニー。
彼は著書『暗黙知の次元』(1966年)で、「我々は語れる以上のことを知っている(We can know more than we can tell)」と述べました。
この「語れる以上に知っている」知のことを、彼は暗黙知と呼びました。
たとえば自転車に乗れることと、自転車の乗り方を言葉で説明できることは、まったく別の能力です。
乗れる人のほとんどは、その理屈を説明できません。それでも、確かに乗れる。これが暗黙知です。
二人目は、ギルバート・ライル。彼は『心の概念』(1949年)で、「やり方を知っている(knowing how)」と「事実を知っている(knowing that)」は別のものだと区別しました。
泳ぎ方を知っていることは、泳ぎに関する事実を述べられることに置き換えられない。技能の知は、言葉にできる知識には還元できないのです。
現場のベテランが持っているのは、まさにこの knowing how であり、暗黙知です。
だから「マニュアルにまとめて」と頼まれても、すんなり言葉にならない。
本人の能力の問題ではなく、知の性質そのものが、そうなっているのです。
「言葉にできない」には、二つの種類がある
ここで、当事者にとって大事な区別をしておきます。ひとくちに「言葉にできない」と言っても、中身は二つに分かれます。
- (a) 感じているけれど、言葉にできない:
- 本人は「何か」を感じ取っている。表現する力の問題なので、じっくり考えたり、うまく問われたりすれば、言葉にできる可能性がある。
- (b) そもそも気づいていない:
- 判断していること自体に本人が無自覚。これは、いくら一人で内省しても届かない。先ほどの「壁1」の核心は、こちらです。
(a) なら、机に向かって粘れば、いつか書けるかもしれません。けれど (b) は、自分の意志や努力だけではどうにもならない。
気づいていないものを、自分で気づくことはできないからです。
ここに、当事者一人で立ち向かうことの限界があります。
冒頭で手が止まったあの感覚は、努力不足でも才能不足でもありません。
一人の内省では、最後の一歩にどうしても届かない領域がある、ということなのです。
では、その届かない一歩を、どうやって埋めればいいのか。
鍵は「自分以外の誰か」の関わり方にあります。
次回は、マニュアルを書いてもらう側 ― 上司やリーダー、業務改善の担当者の視点から、隠れた判断をどう引き出すかを考えます。
HABAねっとは、北陸を拠点に中小企業・個人事業主のDX伴走支援を行っています。
「ベテランの技が引き継げない」という悩みの多くは、本人の中に沈んだ暗黙知をどう取り出すかという問題です。
「ツール選定」ではなく「課題」「業務」「人」から設計するDXを、一緒に組み立てます。