私が見てきた達人たちは、道半ばの状態を楽しんでいた(後編)

実際に楽しんでいる人は、なぜ強いのか?

前編では、取り組み方で人を三つに分けました。

一つ目は対価のために、二つ目は理想や意義のために、三つ目は楽しみながら取り組む人です。そのうえで、「楽しんでいる者には勝てない」という標語の正体を、言葉からたどりました。

理想を追う人と楽しむ人は、同じ歩み方で道を歩いています。そして、孔子の言葉につけられた昔の注釈によれば、楽しむ者とは、道が身について、その中で歩いている人でした。

なぜ「楽しんでいる者には勝てない」のか。道楽という言葉から考えた(前編)

達人たちは、立ちはだかる壁まで面白がっていた

私がこれまで見てきた、高い技術を持っている人たち。そのほとんどに共通していたのは、楽しい、幸せだ、美しいと感じながら、取り組んでいることでした。

道半ばにいる本人たちは、常に面白いと感じています。困難や課題や壁があれば、一時的には苦労します。

それでも、その道半ばの状態を楽しんでいます。苦しさやつらさまで、面白いと感じているのです。

途中がずっと苦しくて、最後に到達して「やった」と解放される。そういう道のりとは、まるで別物です。

ところが、この感覚は、外からはなかなか理解されません。

外から見れば、壁は苦しみにしか見えません。

本人たちにとっても、苦しいことに変わりはありません。壁の最中から楽しんでいることもあれば、越えたあとに振り返って「面白かった」と言うこともあります。

どちらにしても、苦しいことに変わりはないのに、その苦しさや辛さまで含めて、面白いのです。

ただ、これは私が見てきた範囲の話です。

楽しんでいる人ほど伸びるというのは、研究でも確かめられているのか?

ふと、そんな疑問が脳裏に浮かびました。そこで早速 AI に調べてもらいました。

達人の練習は、それ自体は楽しくない、という研究がありました

出てきたのは、少し意外な研究でした。

熟達の研究で知られる心理学者エリクソンらは、上達をもたらす練習を「意図的な練習(deliberate practice)」と呼びました。

課題を絞り、努力を要する練習です。そして、この練習はそれ自体は楽しいものではない、と主張しています。

人が練習を続けるのは、練習が上達につながるからだ、というのです。

楽しむ者が勝つ、という話とは、食い違うように見えます。

では、楽しむことと、楽しくない練習は、どうつながっているのでしょうか?

そこを重ねて調べてもらうと、二つをつなぐ研究がありました。

心理学者ヴァレランらは、情熱を二つに分けました。

  1. 活動を大切で楽しいものとして、自分から受け入れている
    「調和的な情熱(harmonious passion)」
  2. やめたくてもやめられない
    「強迫的な情熱(obsessive passion)」

調和的な情熱は、意図的な練習につながり、その練習が成績につながっていました。強迫的な情熱も練習にはつながりますが、幸福感とは結びつかないか、逆の関係でした。

調和的な情熱を持つ人は、燃え尽きる人とどこが違うのか?

2015年に94の研究をまとめた分析では、調和的な情熱を持つ人ほど燃え尽きにくく、強迫的な情熱を持つ人ほど燃え尽きやすい、という結果が出ています。

エリクソンの説明では、練習を続ける理由は「上達」という先の結果にあります。

ところが、私が見てきた三つ目の人たちは、少し違います。

三つ目の人に、たどり着く場所はありません。いつまでも道半ばです。

その道半ばの状態を、苦しさまで含めて面白がっていました。

続ける理由が、取り組みの外ではなく、取り組みそのものの中にあるのです。

ヴァレランの言う調和的な情熱は、こちらに近いのだと思います。

道楽という言葉は、もとは仏教の言葉で、道を修める悦びを指していました。のちには、ふけってやめられない遊びも指すようになります。二つの情熱は、この道楽の二つの意味とも重なって見えます。

届いた人だけを見ると、時間が止まって見える

ここで、自分の見立てを疑ってみました。

私が見てきたのは、高みに届いた人たちです。楽しんでいたのに途中で燃え尽きた人、伸び悩んだ人も、当然います。

届いた人だけを見るのは、ある瞬間で時間を止めて見ているのと同じです。

道は、その先も続いています。

燃え尽きたように見えた人が、しばらくして何かのきっかけで、また伸び始める。壁にぶつかって止まったと思ったのに、復活する。そういう人は、たくさんいます。

もちろん、止まったままの人もいます。

止まって見える理由には、老いもあります。

人には、体にも心にも老いがあります。道を歩き続けてきた人も、いつか伸びが緩やかになります。それは道から外れたのではなく、命の限りという道理に沿っているのです。

能を大成した世阿弥は、初心を三つに分けました。

若いころの初心、その時々の初心、そして老いてからの初心です。

老いた先にも、その段階なりの新しい初めがある。道半ばの状態は、老いても続いていくのです。

ただ、私が見届けられる人は限られます。一度止まった人とは、触れ合う機会が減っていきます。お互いの歩く道が分かれていくので、関係がおのずと薄れます。

私がその人の道を、最後まで見届けることはできません。

見届けられるのは、生涯を共にする良き友人くらいでしょう。人の道は、一生を通してはじめて、その形が見えるものです。

私が見てきたのは、それぞれの人の道のうち、私の道と重なった一区間だけです。

だから、楽しんでいる人がその先どう歩いていくのかまでは、私には言えません。

言えるのは、私が並んで歩いた区間で、高いところにいた人たちが楽しんでいた、ということまでです。

では、再び動き出した人は、何がきっかけだったのか? 外からか、内からか。

これには答えられません。人の内面を、外から決めることになるからです。似た体験をした人たちから聞いた話では、どちらもありました。外からも、内からも。

きっかけを語ろうとすると、その人の人生を語ることになります。

では、道を歩き続けている人は、壁をどう越えているのか?

昔の人がそれをどう書き残しているかを、AI に探してもらいました。

荘子の料理人は、技ではなく道を好みました

出てきたのは、荘子の寓話でした。

孔子や荘子の話は好きでよく参考にしていますが、孔子の言葉の注釈も、この荘子の話も、今回初めて知るものでした。

この寓話が載っている篇は、次の一節で始まります。

吾が生や涯(かぎり)有り、而して知や涯無し。涯有るを以て涯無きに随う、殆(あや)うきのみ。

荘子

私の命には限りがあり、知には限りがない。限りあるもので限りないものを追えば、危うい。

前編で、理想が高すぎる人は、人の寿命という現実にぶつかって留まると書きました。荘子は二千年以上前に、これと通じることを言っていたのです。

この一節のすぐあとに、料理人の話が続きます。

料理人の丁(てい)が、王の前で牛を解体する話です。その手さばきは、音楽と舞に合うほど美しかったといいます。

王が、技とはここまで至るものかと感心すると、丁は刀を置いて答えました。私が好むのは道であり、それは技を超えたものです、と。

この話には続きがあります。

丁ほどの達人でも、筋の固まった難所に来ると、難しさを見て取って身を引き締めます。目を凝らし、手を緩め、刀をごくわずかに動かします。そして解き終えると、刀を手に立ってあたりを見回し、満ち足りた気持ちで刀を収めるのです。

達人にも、壁はあるのです。

それでも丁は、その難所に身を引き締めて向き合うことまで含めて、この道を好んでいます。

もう一つ、刀の話があります。腕のいい料理人は年に一度、並の料理人は月に一度、刀を替えます。丁の刀は十九年、数千頭の牛を解いても、研ぎたてのようだったといいます。王はこの話を聞いて、養生(いのちを養う道)を会得したと言いました。

牛の体には、刃がすっと通る大きなすき間もあれば、筋が複雑に絡み合ったところも、硬く太い骨もあります。丁は、そのもともとの仕組みに沿って、刃を進めていました。すき間には刃を導き、筋や骨には刃を当てない。絡み合ったところでは、手を緩めて、刃をごくわずかに動かす。

だから、刀が傷まないのです。人も、ものごとの道理に沿って歩いているあいだは、壁を越えて伸び続けられるのだと思います。

燃え尽きずに続けられる道とは、こういうものなのでしょう。

技は、道の上に載っている

技術、技(わざ)、道、道楽。AI と話しながら、私はこう整理してみました。

  • 技術は、言葉にして人に渡せる部分。
  • 技(わざ)は、その人の身体に入った部分。
  • 道は、技の向こうに見ている方向で、生き方そのもの。
  • 道楽は、その道を歩むこと自体の悦び。

技(わざ)そのものを目的にすると、壁は失敗になります。でも、技(わざ)を磨き続けることを、自分の歩き続ける道の上として受け止めていれば、壁も道の一部になります。

自分で道を選ぶ。道半ばの状態を楽しむ。苦しい練習を引き受ける。壁まで面白がる。止まっても、また動き出す。どれも、技(わざ)を、歩き続ける道の上のものとして持っているところから生まれるのだと思います。

「楽しんでいる者には勝てない」の正体は、たぶんここにあります。

楽しんでいる人は、技(わざ)だけを持っているのではありません。道の上を歩いているのです。


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「うちの職場にも、こんな人がいる」というお話、反論も、
何でもお聞かせください。


筆者:幅 美貴(Haba Yoshitaka)
北陸を拠点に、中小企業・個人事業主の DX 伴走支援を行っています。
「ツール選定」ではなく「課題」「業務」「人」から設計するDXを、
一緒に組み立てます。

参考文献(記事のために調べたもの)

  • 朱熹『論語集注』雍也第六(中國哲學書電子化計劃 ctext.org で確認)
  • 『荘子』養生主篇(ウィキソースで確認)
  • 吉原裕一「芸道と武士道における美の顕現をめぐって」『國學院雜誌』第123巻第11号、2022年(世阿弥の初心の確認に使用)
  • Ericsson, K. A., Krampe, R. T., & Tesch-Römer, C. (1993). The role of deliberate practice in the acquisition of expert performance. Psychological Review, 100, 363–406.
  • Vallerand, R. J., et al. (2007). On the role of passion in performance. Journal of Personality.
  • Curran, T., Hill, A. P., Appleton, P. R., Vallerand, R. J., & Standage, M. (2015). The psychology of passion: A meta-analytical review of a decade of research on intrapersonal outcomes. Motivation and Emotion, 39(5), 631–655.