※ 本作は著者の実体験をベースに、一部演出や脩色を加えて構成した物語です。
前の話で、私は経理の柿谷さんから、妙な言葉を聞きました。
単価が合っているかどうか、調べようがない——。
そのときの私は、それを、記録の探し方を知らないだけだと思っていました。経理に記録がないなら、発注をしている購買に行けばいい。頼んだ値段さえ分かれば、請求書が正しいかどうかは、すぐに白黒がつく。そう信じて、翌朝、私は購買の升方さんの机へ向かいました。
いま思えば、あの朝の私は、まだ「記録は、どこかに必ずある」と思っていたのです。世の中の仕事は、そういうふうにできている、と。
── 購買の升方さんの机で ──
朝いちばんの購買の島は、電話の音から始まった。
升方さんの机は、窓ぎわの、いちばん奥にあった。書類の立てかけ、カレンダー、湯呑み。その真ん中に、黒い電話機が一台、どんと据わっている。受話器のコードが、使い込まれて、らせんの巻きが伸びきっていた。
私が近づいたとき、升方さんは、ちょうど受話器を置いたところだった。五十代半ば、現場上がりらしい厚い肩。こちらを見て、人のいい笑みを浮かべた。
「おう、生産管理の兄さん。どうした」
私は、単価の食い違いを調べたくて、過去の発注記録を見せてほしいと頼んだ。できるだけ、丁寧に。升方さんは「発注の記録?」と、少しきょとんとした顔をした。
それから、机の上の電話機を、指でさした。
「発注は、これですわ」
私は、意味が分からなかった。
「……これ、といいますと」
「電話や。あそこの営業とは、もう長いつきあいでな。品番と数、言うたら、それで通じる。速いやろ。現場が待っとるときに、いちいち紙書いとったら、間に合わんもん」
升方さんは、悪びれるでもなく、むしろ少し誇らしげに、そう言った。
私は、机の上を見た。発注書の控えも、注文票のファイルも、見当たらない。あるのは、電話機のわきに置かれた、小さなメモ用紙の束だった。手のひらほどの紙に、鉛筆で、品番と数量が走り書きされている。何枚かは、すでに二本線で消してあった。
「これは」
「ああ、それは、頼んだやつの控えっちゅうか。忘れんように書いとるだけや。品物が来たら、消す」
一枚を、断って手に取った。
品番と、数量。それだけだった。単価は、書いていない。日付も、書いていない。いくらで頼んだのか、いつ頼んだのか——その紙は、何も語らなかった。
背中に、じわりと嫌なものが走った。
私は、柿谷さんの席で見た請求書を思い出していた。あの単価が正しいかどうかを確かめるには、頼んだときの単価と、突き合わせるしかない。けれど、頼んだときの単価は、どこにもなかった。升方さんの頭のなかと、電話の向こうの相手の記憶。それが、この会社の「発注記録」のすべてだった。
(……そもそも、証拠が、ない)
数えれば答えの出た在庫とは、まるで違う。あのときは、少なくとも「現物」があった。数が合わなければ、どこかが間違っている、と分かった。けれど、ここには、突き合わせる相手そのものが、存在しない。間違いを証明する材料が、最初から、この会社にはなかったのだ。
「升方さん。たとえば、先月この品番を頼んだとき、単価は、いくらでした」
升方さんは、腕を組んで、天井を見上げた。
「うーん……いつもと、同じやったと思うで。あそこは、そう値段変えてこんから。まあ、なんとかなっとるやろ」
なんとかなっとる。
その言葉に、私は言い返せなかった。事実、この会社は、この電話一本の発注で、何十年も回ってきたのだ。品物は届き、現場は動き、製品は出荷され、給料も出ている。なんとかなっている、というのは、嘘ではなかった。
升方さんを、責める気にはなれませんでした。
彼の電話発注は、いい加減なのではありませんでした。速いのです。現場が「材料がない、早くしてくれ」と言ってきたとき、紙を書き、判をもらい、FAXを流して——そんなことをしている間に、機械は止まる。升方さんは、その現場の苦しさを、身体で知っている人でした。だから、電話を取る。品番と数を言う。三十秒で、発注は済む。それは、現場を止めないための、彼なりの最適化だったのです。
第一部で、私はこう書きました。悪いのは、人ではなかった、と。ここでも、同じでした。升方さんは、自分の持ち場で、いちばん正しいことをしていた。速さという、正しさを。
ただ——その速さが生んだ「記録の不在」が、経理の柿谷さんの席で、「調べようがない」という壁になっていた。升方さんは、柿谷さんの苦労を知らない。柿谷さんは、升方さんの速さの事情を知らない。二人とも、悪くない。それなのに、月末の紙の山は、合わない。
私は、その日、具体的に一件だけ、食い違いを追ってみることにした。
先月ぶんの請求書のなかに、わずかに単価の上がっていた品番があった。丸鋼の一種だ。升方さんに、その品番を最後に頼んだときのことを聞くと、「ああ、それな。先々月やったか、先月の頭やったか」と、日付すら曖昧だった。メモの束を繰ってもらったが、その品番の控えは、もう消されて捨てられていた。品物が来たから、消した。それだけのことだった。
見積のメモには、ある単価。請求書には、少し高い単価。そのどちらが「頼んだときの約束」だったのか。それを判定する材料は、社内の、どこにも、なかった。
前の職場では、こんなことは、起こりようがありませんでした。
海外から商品を調達していたあのころ、番号のない注文は、そもそも存在しませんでした。注文には必ず番号が振られ、単価も納期も、その番号にぶら下がっていた。あとから何を確かめるにも、番号を一つ手繰れば、すべてが出てきた。私は、それを当たり前だと思っていた。世界とは、そういうふうにできているのだと。
けれど、ここには、その番号が、なかった。
── 会議室で、一人 ──
夕方、私は空いていた会議室に、先月と先々月の請求書のコピーを持ち込んだ。
蛍光灯の一本が、切れかけていて、ときどき、ちらついた。机に紙を広げて、同じ仕入先の、同じ品番を、月をまたいで並べていく。単価の合っているもの。わずかに違うもの。仕分けをしながら、私は、あることに気づきはじめていた。
食い違っているのは、ごく一部だ。ほとんどの品番は、月をまたいでも、きれいに同じ単価だった。仕入先も、いちいち値段を変えてはこない。前回と同じ値で、淡々と請求してくる。だから、柿谷さんの「たぶん、合ってます」は、大半において、正しかった。
けれど、その「大半」の陰に、数件、どうしても説明のつかない食い違いが、残った。
上がっているものが、ある。理由が、分からない。升方さんに聞いても、「そんなもん、上げるとは聞いとらんけどなあ」と首をかしげるだけ。仕入先が、間違えて高く請求してきたのか。それとも、値段が上がったのに、こちらが気づいていないだけなのか。
そのどちらなのかを、私は、社内のどの紙をめくっても、決められなかった。
窓の外は、もう暗くなっていた。会議室の、切れかけた蛍光灯だけが、私の手元の紙を、頼りなく照らしていた。
過去の食い違いは、どこまで遡れば、分かるのだろう。
私は、机に積んだ請求書の束を、もう一度、いちばん最初のページから、めくりはじめました。そのときはまだ、いくら遡っても答えの出ない相手が、この先で自分を待っていることを——私は、知りませんでした。
(第8話へつづく)