※ 本作は著者の実体験をベースに、一部演出や脩色を加えて構成した物語です。
在庫のときは、夜が味方でした。
誰もいない工場で、一本ずつ数える。数えれば、答えが出た。現物は、私を裏切りませんでした。半年かけて、私はその戦い方を、自分の身体に覚え込ませたのです。まず、自分の手で確かめる。手を動かせば、いつか合う。
だから、仕入れの食い違いも、同じやり方で片づくと思っていました。過去の取引を、一件ずつ、遡って調べればいい。地道にやれば、必ず答えは出る。在庫のときと、同じように。
その考えが、初めて通用しなかった話を、書きます。
── 会議室に籠って ──
私は、空いている会議室を、しばらく借りることにした。
机の上に、過去半年ぶんの請求書のコピーと、社内の仕入伝票を広げる。仕入先ごと、品番ごとに、単価を並べていく。付箋を貼り、色を分け、合っているものと、食い違っているものを、仕分けていった。
窓のブラインドの隙間から、午後の光が差して、机の上に細い縞を作っていた。その縞が、時間とともに、少しずつ動いていく。気づけば、光はもう机の端まで移っていた。
調べていくうちに、分かってきたことがあった。
食い違いの、ほとんどは、実は食い違っていなかった。仕入先の多くは、前回と同じ単価を、淡々と請求してくる。柿谷さんが記憶と勘で「たぶん合ってます」と押していた判は、その大半において、正しかったのだ。仕入先も、いちいち値段を変えない。前の値を、そのまま踏襲してくる。だから、月末の山の九割は、本当に、合っていた。
問題は、残りの一割だった。
そのなかに、どうしても説明のつかない食い違いが、数件、残った。単価が、上がっている。理由が、分からない。升方さんに聞いても、「上げるとは聞いとらんけどなあ」と首をかしげるだけ。社内の、どの紙をめくっても、なぜ上がったのかを語る記録は、なかった。
私は、その数件を前に、動けなくなった。
在庫のときは、こうではなかった。数が合わなければ、もう一度数えればよかった。棚の奥を探せば、隠れていた一本が見つかった。現物が、必ず、どこかにあった。けれど、ここには、探すべき現物がない。過ぎてしまった約束事は、どこにも、落ちていない。
何日か、私はその会議室に籠った。缶コーヒーを、二本ずつ買った。片方は、いつも冷めた。相手のぶんを買う癖が抜けなくて、けれど会議室には、いつも私一人だった。
そして、ある夕方、私は認めざるをえませんでした。
数えても、答えは出ない。私の武器は、ここでは、振れない。
半年かけて磨いた戦い方が、この相手には、まるで通用しない。それを認めるのは、正直、こたえました。在庫で勝ったことが、少し、私を驕らせていたのかもしれません。
── 常務が、会議室に来た ──
その夕方、ノックもなく、ドアが開いた。
柴田常務だった。ワイシャツの袖を、肘までまくっている。腕は、現場の男たちのそれより、ずっと細い。手に、湯気の立つ紙コップを二つ持って、片方を、私の前の机に置いた。
「どう。進んでる?」
私は、机に広げた付箋の海を、見た。それから、正直に言うしかなかった。
「……止まっています」
常務は、付箋を一枚、手に取って県めた。それから、椅子を引いて、私の向かいに座った。
「在庫のとき、半年で直したじゃない。あれ、すごかったよ。だからさ」
そこで、少し、言葉を選ぶような間があった。
「同じやり方で、仕入れも、パッと横に展開できないの? 早くさ。工場のほかの数字も、たぶん同じように狂ってるんだろ。一個ずつ半年かけてたら、俺が生きてるうちに終わらないよ」
冗談めかしてはいたが、目は、笑っていなかった。
私は、この人の焦りを、知っていました。後継者として、残された時間は多くないと、いつも思っている人でした。在庫を直した私に、次を、その次を、と期待するのは、この人にとっては、会社の未来そのものへの焦りだったのです。
けれど、それでも、私は、首を横に振るしかなかった。
「常務。在庫と、同じにはできないんです」
「なんで」
「在庫は、数えれば答えが出ました。現物が、あったからです。でも、仕入れには、現物がない。頼んだときの単価が、社内のどこにも残っていない。答えを出すための、証拠そのものが、この会社には、ないんです」
常務は、しばらく黙っていた。紙コップのコーヒーを、一口すすった。
「証拠がないなら、作ればいいじゃない。あんた、そういうの得意だろ」
「これから作る仕組みは、これからのぶんを守ります。でも、過ぎてしまった過去の食い違いは、作った仕組みでは、遡れないんです」
言いながら、私は、自分の声が、少し固くなっているのに気づいていた。
常務も、それを感じたのだと思う。ふう、と息をついて、椅子の背にもたれた。
「……分からないな。在庫はできて、これはできない。俺には、同じ数字の問題に見えるんだけど」
「見た目は、同じです。でも、中身が、違うんです」
「まあ、いいや」
常務は、立ち上がった。紙コップを持って、ドアのほうへ歩きかけて、一度だけ、振り返った。
「早く、頑むよ。待ってるからさ」
その「待ってる」が、期待なのか、催促なのか、私には測りかねた。ドアが閉まって、会議室に、また私一人が残された。
第一部でも、私はこの人と、一度ぶつかりました。あのときは、方法論の違いでした。今度は、違う。成果を、一度出してしまったあとの対立です。期待されているぶんだけ、応えられない自分が、重かった。
信頼というのは、こういうとき、圧に変わるのだと知りました。
冷めた缶コーヒーを、一口飲んだ。ひどく苦かった。
── 決断 ──
その夜、私は、机の付箋を、一枚ずつ剥がしながら、考えていた。
社内を、どれだけ探しても、答えは出ない。ならば、答えは、社内には、ない。当たり前のことが、ようやく腹に落ちた。答えを持っているのは、社内ではない。頼んだ相手——仕入先だ。
いくらで請求したのか。なぜ、その値になったのか。それを知っているのは、請求書を送ってきた、向こうの会社だ。
問い合わせればいい。ただ、それは、恥をかくことでもあった。
「おたくの請求、うちの記録と合わないんですが」と聞くことは、裏を返せば「うちには、まともな発注記録がありません」と、社外に打ち明けることだった。長年の付き合いの相手に、頭を下げて、自社の内側の不始末を、さらす。
けれど、ほかに、道はなかった。
前職では、こんなふうに頭を下げる必要は、ありませんでした。番号を一つ手繰れば、いつ・いくらで頼んだかが、すべて出てきた。社外に聞くまでもなく、答えは社内にあった。あのころの私は、それを当たり前だと思っていた。頭を下げる、という戦い方を、私は、この会社で初めて覚えたのです。
翌朝、私は、いちばん食い違いの大きかった仕入先の番号を、升方さんの机の電話から、押しました。
呼び出し音を聞きながら、私は、なんと切り出すかを考えていた。想像していた答えは、たぶん、こうだ。「そちらの記録違いでしょう」か、あるいは「うちが間違えました」か。そのどちらかだろう、と。
けれど、返ってきた答えは、私の想像の、外にありました。
(第9話へつづく)