
ある製造業の社長室。月次の業績会議が終わった直後の会話である。
社長「先月もまた利益が薄い。原価をしっかり管理しろと、半年前から言っているじゃないか」
工場長「はい、現場の歩留まりは改善しています」
経理部長「月次原価計算も、滞りなく回しております」
社長「……それで、結局うちの製品、どれが本当に儲かっているんだ?」
(沈黙)
このすれ違い、心当たりはないだろうか。
「原価管理」という言葉が抱える落とし穴
「原価をしっかり管理しろ」。経営者なら、一度は口にしたことがある言葉ではないだろうか。
ところが、この一言が社内で全く違う意味に解釈されていることが、製造業の現場では驚くほど頻繁に起きている。
社長は、製品ごとの本当の儲けが見えない不安、値決めの根拠が曖昧なまま続いている懸念、不採算製品を切れていない焦りなど、複数の問題意識を一つの言葉に凝縮している。社長の頭の中では、これらの背景がすべてつながった「なんとかしないといけない感じ」が見えている。
しかし、受け取る側にはその背景が共有されていない。だから言葉の表面だけが届く。
経理部長は「決算で正しく計上する仕組みを整えること」と受け取り、月次の原価計算を丁寧に回す。工場長は「現場で原価意識を持って改善すること」と受け取り、歩留まり改善に取り組む。
それぞれは真面目に動いている。しかし、社長が本当に欲しかったもの — 「製品ごとの本当の儲けが見えること」 — には、誰も答えていない。
なぜこのすれ違いが起きるのか
このすれ違いの根っこには、「原価管理」という言葉が、立場によって全く違うものを指しているという事実がある。
これは私の意見だが、わかりやすく言うとこうなる。
会計・経理の考えている原価管理と、生産管理などで利用される原価管理は、違うものだ。
両者の違いを整理してみよう。
| 観点 | 会計・経理の原価管理 | 生産管理の原価管理 |
|---|---|---|
| 主な目的 | 決算・税務・対外報告 | 改善・意思決定・現場管理 |
| 重視する性質 | 正確性・継続性・網羅性 | 速報性・実態反映・粒度 |
| 時間軸 | 過去(確定値) | 現在〜未来(変動値) |
| 粒度 | 製品別・期間別 | 工程別・ロット別・要因別 |
| 数字の正しさの基準 | 会計基準への準拠 | 経営判断への有用性 |
どちらも「原価管理」と呼ばれている。しかし、求めているものも、使い方も、全く違う。
経理が出した原価をそのまま改善活動に使うと、判断を誤る。逆に、現場で使っている原価をそのまま決算に使えば、監査は通らない。
ところが、多くの中小製造業では、両者が同じ言葉で語られたまま、誰もその違いを意識していない。社長が「原価管理」と言ったとき、経理は会計の原価を、現場は生産管理の原価を思い浮かべる。そして、自分の解釈で動き出す。
経営者には「翻訳責任」がある
ここで重要なのは、これは部下の理解力の問題ではないということだ。
部下は社長の頭の中の文脈にアクセスできない。「それはどういう意味ですか」と社長に問い直すのも難しい。だから、自分の専門領域の解釈で受け取るしかない。
つまり、これはコミュニケーションの構造的な問題であって、誰の能力不足でもない。
そして、この構造的な問題を解消できるのは、発信者である経営者本人だけだ。
経営者の多くは「指示の実行責任は部下にある」と考える。だが、実は指示の解釈責任は、発信者である経営者の側にも存在する。自分の言葉が複数の解釈を生む可能性があることを、まず経営者自身が自覚する必要がある。
これをあえてネーミングするなら、私は「翻訳責任」と名付けるだろう。
翻訳責任を果たすための3つの問い
では、経営者は具体的に何をすればよいのか。
「原価をしっかり管理しろ」という言葉の背後には、経営者が口に出す前に整理しておくべき3つの問いがある。
問い1:私は何を判断したいのか?
製品ごとの収益性を比較したいのか。値上げ交渉の材料が欲しいのか。不採算製品の撤退を決めたいのか。次年度の設備投資の優先順位を決めたいのか。
判断の中身が違えば、必要な数字も、その粒度も全く変わる。
問い2:その判断に、いつまでに、どの精度の数字が必要か?
経営判断のための数字は、必ずしも会計基準どおりの精度を必要としない。むしろ、来週の会議に間に合う「だいたい正しい数字」のほうが、3カ月後にできあがる「完璧な数字」より価値があることが多い。
問い3:誰に、どの言葉で頼めば届くか?
経理部長に頼むなら「決算用の原価とは別に、製品別収益性の試算を出してほしい」と言う必要がある。工場長に頼むなら「現場改善ではなく、製品ポートフォリオ判断のための工程別コストを出してほしい」と言う必要がある。
同じ「原価を出して」では、どちらも自分の専門領域の解釈で動いてしまう。
ソフトウェア導入の前に、言葉の整理を
近年、「DXで原価管理を高度化しよう」という提案が、中小製造業にも数多く持ち込まれるようになった。
しかし、システムを入れる前に必ず確認すべきことがある。それは、社内で「原価管理」という言葉が、誰にとって、何を指しているのかを整理することだ。
これが曖昧なままシステムを導入すると、何が起きるか。経理は経理の解釈で要件を出し、現場は現場の解釈で要件を出す。結果、できあがるのは「決算用の原価計算を高速化するシステム」か「現場改善用のデータを集めるシステム」のどちらかであり、社長が本当に欲しかった「経営判断のための原価」は、相変わらず見えないままになる。
これは私の意見だが、DXの本質は、ツール導入ではなく言葉と判断の構造を整理することにある。
まとめ:経営者がまず取り組むべきこと
「原価をしっかり管理しろ」という指示を出す前に、経営者が実践すべきことは次の通りである。
- 本当に判断したいことを、紙に書き出す
- その判断に必要な数字の粒度・精度・タイミングを明確にする
- 経理向け・現場向けで、依頼の言葉を分ける
- 「原価管理」という言葉は、社内では複数の意味を持つことを前提に話す
これだけで、半年後の業績会議の景色は、かなり変わるはずだ。
そして、もし社内に「社長の言葉が、ちゃんと意味を理解されて受け取られていませんよ」と直言してくれる相談相手がいるなら、それは経営にとって極めて貴重な存在だ。外部の顧問やコンサルタントが、この翻訳の橋渡し役を担えるかどうかは、企業のDXの成否を分ける重要な要素だと、私は考えている。
HABAねっとは、北陸を拠点に中小企業・個人事業主のDX伴走支援を行っています。「原価管理を見直したい」「経営の意思決定に使える数字がほしい」というご相談に対して、ツール選定ではなく、言葉と判断の構造を一緒に整理するところから伴走しています。