数字が合わない工場(第9話)バインダーの中の値上げ通知

※ 本作は著者の実体験をベースに、一部演出や脩色を加えて構成した物語です。

答えは、電話の向こうから、あっさりと返ってきました。

拍子抜けするほど、あっさりと。私が何日も会議室に籠って、それでも出せなかった答えを、相手は、ものの数十秒で口にしたのです。

そのとき私が感じたのは、安堵よりも先に、ひやりとするものでした。答えは、こんなに近くにあった。それなのに、私たちは、それに手が届いていなかった。なぜだ、と。

その「なぜ」の正体を知ったとき、私は、この会社の本当の病を、はじめて理解しました。

── 仕入先への電話 ──

呼び出し音のあと、営業の男が出た。

私が、名乗って、単価の食い違いのことを、できるだけ丁寧に切り出すと、相手は少しも気を悪くするふうがなかった。むしろ、慣れた調子で、すぐに調べてくれた。受話器の向こうで、紙をめくる音がする。

「ああ、その品番ですね。……ええ、それ、単価改定させてもらってます。値上げのご案内、お送りしてますよ。三月に」

私は、受話器を握ったまま、動きが止まった。

「案内、ですか」

「はい。FAXで。原材料が上がったもんで、四月ぶんから、と。ご返信もいただいてますけど……あれ、そちら、行き違いになってます?」

行き違い。その言葉が、耳の奥で、いやに響いた。

礼を言って、受話器を置いた。しばらく、升方さんの机の前で、立っていた。値上げの案内は、届いていた。三月に、FAXで。ちゃんと、送られてきていたのだ。それも、返信までしているという。つまり、誰かが、受け取っていた。

では、その紙は、どこへ消えたのか。


── 総務の書棚の前で ──

総務の島の、壁ぎわに、背の高いスチール棚があった。

古いバインダーが、ぎっしりと並んでいる。背表紙に、年度と、仕入先の名前。手書きの、色あせたラベル。私は、総務の人に断って、その棚を、端から探させてもらった。

埃っぽい匂いがした。指でバインダーの背をなぞっていくと、目当ての仕入先の一冊が、あった。抜き出して、机に置いて、めくる。受注の控え、納品の控え、そして——あった。

値上げの案内のFAXが、そこに、綴じられていた。

三月の日付。品番。旧単価と、新単価。四月ぶんから適用、という一文。返信欄には、この会社の誰かの判が、確かに押してあった。何もかも、揃っていた。情報は、この一枚に、完璧に、書いてあった。

私は、その紙を、しばらく見ていました。

情報は、あったのです。届いて、受け取られて、判まで押されて、こうしてバインダーに綴じられていた。何ひとつ、欠けていなかった。ただ——その情報は、そこで、止まっていた。

値上げの案内は、総務のバインダーに眠っていた。けれど、実際に発注する升方さんの手元には、その値は伝わっていなかった。だから升方さんは、古い単価のつもりで、電話で頼み続けた。そして請求書には、新しい単価で、金額が乗ってくる。経理の柿谷さんは、その差に気づいても、なぜ違うのかを知る手立てがなかった。

情報は、あった。ただ、使われる場所に、つながっていなかった。

綴じて、終わり。受け取って、終わり。判を押して、終わり。一枚のFAXが持っていたはずの意味は、バインダーの背表紙の内側で、静かに、死んでいたのです。

私は、あらためて、過去の食い違い全部を、この目で洗い直しました。

すると、はっきりしたことがあった。原因不明だった食い違いのうち、その過半が、この「値上げの案内は来ていたのに、誰も発注や経理に反映していなかった」型だったのです。仕入先が間違えた、という純粋なミスは、ごくわずかしかなかった。

つまり、誰も、間違ってはいなかった。

仕入先は、律儀に案内を送っていた。総務は、律儀に受け取って綴じていた。升方さんは、律儀に、いつもの単価で頼んでいた。柿谷さんは、律儀に、締め日までに判を押していた。全員が、自分の持ち場で、律儀に、正しく働いていた。それなのに、数字は、合わなかった。

情報が、人から人へ、つながっていなかった。ただ、それだけのことで。


── 柿谷さんに、伝えに行く ──

私は、その日の夕方、柿谷さんの席へ行った。

紙の山は、あいかわらず、そこにあった。柿谷さんは、老眼鏡を下げて、私を見上げた。私は、値上げの案内が総務のバインダーに眠っていたこと、食い違いの多くが、その反映漏れだったことを、順を追って話した。

柿谷さんは、黙って、聞いていた。

話し終わると、しばらく、手元の請求書に目を落としていた。それから、ふう、と、いつもの小さな息をついて、顔を上げた。その目が、少し、潤んでいるように見えた。

「……そうだったんですか」

一枚の請求書を、指先で、そっとなでた。

「私、ずっと、思ってたんですよ。自分の確認が、甘いんじゃないかって。ちゃんと見てないから、合わないんじゃないかって。判を押すたびに、どこかで」

言葉が、少し、途切れた。

「私たち、間違ってたわけじゃ、なかったんですね」

私は、何も言えませんでした。

この人は、何年も、その後ろめたさを抱えて、判を押してきたのだ。証拠のない世界で、勘だけを頼りに、それでも締め日を守ってきた。合わないのは自分のせいだと、ずっと、思いながら。柿谷さんの「たぶん、合ってます」の裏には、そんな長い後ろめたさが、隠れていたのです。

間違っていたのは、人ではなかった。仕組みが、なかっただけだった。

第一部で私が書いたことが、ここでも、また証明されました。悪いのは、誰でもない。ただ、情報をつなぐ仕組みが、この会社には、なかったのです。


── 会議室に戻って ──

その夜、私は、また会議室に戻った。

机の上に、あの値上げの案内のコピーを、一枚、置いた。切れかけの蛍光灯が、その紙を、ちらちらと照らす。情報は、あった。届いていた。それなのに、生きていなかった。

ふと、二十代のころの、あの仕事を思い出しました。

海外から商品を調達していたあのころ、書類は、一枚も、孤立していませんでした。すべての注文に番号が振られ、その番号に、単価も、納期も、船の名前さえぶら下がっていた。番号を一つ辿れば、いま荷物が海のどこにあるかまで、分かった。情報は、常に、次の情報とつながって、生きていた。

私は、それを、当たり前だと思っていた。書類とは、つながっているものだ、と。

けれど、この会社では、書類は、つながっていなかった。一枚ずつ、バインダーの中で、孤立して、眠っていた。届いた情報を、使う場所へ運ぶ道が、どこにもなかったのです。

問題の正体が、やっと、見えてきた。

食い違いの原因は、分かった。情報が、つながっていないこと。ならば、つなげばいい。値上げの案内が来たら、それを発注と経理に届く形にすればいい。

けれど、そこまで考えて、私は、もう一つの壁に気づきました。

仮に、いま、単価を正しく直したとして——その正しさは、いつまで保つのだろう。半年後、一年後、また新しい値上げが来て、また誰かが反映を忘れたら。直したそばから、単価は、また腐っていくのではないか。

正しくすることと、正しくあり続けることは、別の話だ。

その夜、私が本当に向き合うべき相手が、ようやく、姿を現しはじめていました。


(第10話へつづく)

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