※ 本作は著者の実体験をベースに、一部演出や脩色を加えて構成した物語です。
いまも、月末が近づくと思い出す景色があります。
在庫は、直りました。半年、夜ごとに数えて、表とシステムと現物を、やっと一本の線でつないだ。
あのころの私は、正直、少し得意になっていたのだと思います。数えれば、答えは出る。手を動かせば、いつか合う。世界とは、そういうものだと思っていました。
けれど、次に待っていたのは、もっと厄介な相手でした。数えても、答えの出ない相手。そもそも、数えるべき現物が、どこにもない相手です。
いまは、あの工場にいません。高岡の、小さな事務所の窓から、月末になると請求書の締め処理に追われるお客さまの顔を思い浮かべます。
そして、あのとき初めて柿谷さんの席に立ったときの、あの紙の山の匂いを、思い出すのです。
── 月末の経理席で ──
事務所のいちばん奥、窓を背にした席に、紙の山があった。
夕方の光が、ブラインドの隙間から斜めに差して、その山の輪郭をぼんやりと縁取っていた。請求書だ。仕入先ごとに輪ゴムでくくられ、右へ左へと積まれて、机の天板がほとんど見えない。一つの束が崩れかけて、いちばん上の一枚が、扇風機の風でかすかにめくれていた。
紙とインクの、乾いた匂いがした。それに、うっすらと、事務所特有の古い紙の匂いが混じる。倉庫の鉄と油の匂いとは、まるで違う世界だった。
その山の向こうで、柿谷さんが判を押していた。
右手に朱肉、左手で束を繰る。一枚を引き寄せ、金額に目を落とし、伝票をちらと見て、ぽん、と判を落とす。次の一枚。ぽん。その手つきに、迷いがなかった。長年、同じ動作を繰り返してきた者の、無駄のない速さだった。
「柿谷さん」
声をかけると、判を持つ手が、一瞬だけ止まった。老眼鏡を少し下げて、こちらを見上げる。
「ああ、生産管理の。どうしました」
私は、在庫の突合が一段落したところで、次は仕入れの流れを見せてもらいたいと頼んでいた。柿谷さんは「見ても、面白いもんじゃないですよ」と笑って、隣の椅子を引いてくれた。
座って、山を見上げた。近くで見ると、思っていたより高い。
「これ、全部、今月ですか」
「今月ぶんです。仕入先だけで、数十社ありますからね。請求書は、月に数百枚。多い月は、もっと」
ぽん、とまた一つ、判が落ちた。
私は、その動作を横で見ていた。柿谷さんは、請求書の金額を見て、社内の仕入伝票と照らして、合っていれば判を押す。合っていなければ、脇によける。ただ、その「照らす」が、私の目には、やけに速く見えた。速すぎる、と言ってもいい。
「あの、いま、何を確かめて押してらっしゃるんですか」
柿谷さんは、少し笑った。責めるふうでもなく、ただ事実として。
「先月と、だいたい同じかどうか。この会社さんは、いつもこのくらい。この品番は、たしかこの単価。……もう、頭に入ってますから」
ぽん。
「たぶん、合ってます」
その「たぶん」を、柿谷さんは、なんの後ろめたさもなく言った。それは投げやりな「たぶん」ではなかった。何十回、何百回と同じ請求書を見てきた人の、経験に裏打ちされた「たぶん」だ。だが、根拠を紙で示せる「たぶん」ではなかった。
私は、いちばん上の束を、断りを入れてから手に取った。輪ゴムを外し、二枚を並べる。同じ仕入先の、同じ品番。先月ぶんと、今月ぶん。
数字が、違った。
単価が、わずかに違う。何十円か。桁の大きい金額ではない。見落としても、誰も気づかないくらいの差だ。けれど、確かに、違っていた。
「柿谷さん。この単価、先月と違いますね」
紙を差し出すと、柿谷さんは老眼鏡を押し上げて、二枚をしばらく見比べた。それから、ふう、と小さく息をついた。
「……よく気づきましたね」
顔を上げて、私を見る。その目に、責められているという警戒はなかった。むしろ、どこか懐かしいものでも見るような色があった。
「でもね。どっちが正しいか、調べようがないんですよ」
私は、聞き間違えたかと思った。
調べようがない? 発注のときに、いくらで頼んだかを見ればいいだけではないか。頼んだ値段より高く請求されているなら、それは間違い。安いなら、こちらが得。どちらにせよ、注文した記録さえ見れば、白黒はつくはずだ。
そう言いかけて、柿谷さんの顔を、もう一度見た。
この人は、それを知らないから、こう言っているのではない。長年この席で、この山と向き合ってきた人が、「調べようがない」と言っている。だとしたら、私が知らない何かが、この会社の仕入れには、あるということだ。
「……その、注文したときの記録っていうのは」
「発注ですか」
柿谷さんは、判を持ったまま、少しだけ考えるような顔をした。
「発注は、うちじゃないんですよ。購買の升方さんのところ。……でも、あの人に聞いても、たぶん」
そこで言葉を切って、また束に目を落とした。
「まあ、行ってみたら分かりますよ」
ぽん、と、次の判が落ちた。その音が、がらんとした夕方の事務所に、やけに乾いて響いた。
面白いもんじゃない、と柿谷さんは言った。けれど私には、その山が、面白いどころか、恐ろしいものに見えはじめていた。数百枚の紙が、毎月ここを通り、その多くが「たぶん」で判を押されて、外へ出ていく。そのなかに、単価の食い違いが疑われるものが、毎月十数件はある。一件を本気で調べようとすれば、半日仕事になることもあると、あとで知りました。
けれど、その半日をかけたところで、答えの出ないことがある——それを、私はまだ、知りませんでした。
ふと、山の高さに、見覚えのある感覚がよぎった。
二十代のころ、海外から商品を調達する仕事をしていた私の机にも、毎週、船便の書類の山が届いた。あの山を、私は一枚ずつ捌いていた。あのときも、こんなふうに紙が積まれていた。けれど、あの山には、なぜか、この恐ろしさがなかった。
なぜだろう。
その答えに気づくのは、もう少し先のことです。
── 事務所を出て ──
外に出ると、日が落ちかけていた。
駐車場のアスファルトが、昼の熱をまだ残していて、足の裏からじわりと温かい。西の空が、鉄を溶かしたような色をしていた。私は自分の車のドアに手をかけて、けれど開けずに、少しのあいだ、その空を見ていた。
在庫のときは、簡単だった、と今なら思います。いや、簡単ではなかった。半年、毎晩数えたのですから。でも、あれには「現物」があった。数えれば、そこに答えがあった。九本と書いてあって、九本あれば、正しい。八本しかなければ、どこかが間違っている。現物は、嘘をつきません。
けれど、仕入れには、現物がない。
過ぎてしまった約束事。誰かが、いつか、いくらで頼むと決めた——その「決めた」瞬間は、もう過去のなかにあって、触れることも、数えることもできない。私が半年かけて磨いてきた武器は、数えるための武器だった。数えられない相手に、その武器は、どう振ればいいのか。
車のドアを開けながら、私は、明日の朝いちばんに、購買の升方さんの机へ行こうと決めていた。
発注の記録さえ見れば、単価が正しいかどうかは、分かる。柿谷さんが「調べようがない」と言ったのは、経理には記録がないからだ。ならば、発注をしている升方さんの手元には、あるはずだ。
そう思っていました。
そのときの私は、まだ、何ひとつ分かっていませんでした。
(第7話へつづく)